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福岡地方裁判所久留米支部 昭和29年(わ)370号 判決 1958年5月19日

被告人 松元久

主文

被告人は無罪。

理由

本件公訴事実の要旨は「被告人は昭和二十九年五月頃養子チサ子二十年とともに三井郡小郡町北浦小山温泉山下定方に雇はれ、被告人は浴場釜焚夫、チサ子は食堂の女給として働いていたが、被告人はかねてから養子チサ子と情交関係を結び、妻やす子とも別居していたが、同年七月頃妻が同温泉に来てチサ子との情交関係を暴露したので、山下定並びにその従業員等から白眼視され、山下定に対し反感をいだき、同年九月中旬頃チサ子とともに同人方を退職したが、その後も同人が被告人が養子チサ子と醜関係があることを口にしている事をきき、同人に対する不満から同人の経営且所有している同人の叔父小屋松善助等の住居に使用している同町北浦千百一番地温泉浴場に放火しようと企て、同年十月十九日午前二時頃、同浴場釜焚場より故なく侵入し、同浴場男脱衣場内脱衣箱内にボール紙箱内に襤衣と鉋屑を入れたものに石油をかけ之に燐寸で点火し、持運びの出来る同脱衣箱の一部を焼燬したが同住居を焼燬するに至らなかつたためその目的を達しなかつたものである。」というにある。

そこで証拠によりこれを審案すると(この判決で月、日のみを示すのは昭和二十九年のそれを指す)右日時、場所で右の程度の火災があつたこと、火災の原因としては漏電及び自然発火の形跡がなかつたこと、かえつて浴場の脱衣箱の中から放火材と認められるぼろ布と鉋屑を入れたボール箱の破片が出て来て、それに石油の臭がしていたことにより本件火災が放火によるものと認められることは、第四回公判調書中証人山下ヨシ子、第五回公判調書中証人小屋松善助の各供述記載、司法警察員作成の実況見分調書によつて認められる。

そこで本件火災が果して被告人の放火によるものであるか否かの点につき以下順次検討する。

(一)  検察官主張の本件犯行の動機について

先ず検察官主張の動機であるが第三回、第十四回公判調書中証人山下定、第四回公判調書中証人山下ヨシ子、第五回公判調書中証人古賀ツギヨ、第六回公判調書中証人山下ヤス、第八回公判調書中証人山下厚美、第八回、第九回、第十回公判調書中証人松元チサ子の各供述記載、被告人の司法警察員に対する十二月七日附供述調書によると、被告人は佐賀県東松浦郡蕨木町字岩屋新屋敷で妻山下ヤスと畳製造に従事していたが、夫婦間に子供のないところから妻ヤスの妹チサ子(当時十四年位)を養子にしたが、チサ子が十七才の頃、同女と情交関係を結び爾来右関係を継続していたところ妻ヤスがこれを知つたため家庭内が不和となり、被告人はチサ子とともに家を出て、一時福岡市内にも居たが、後福岡県三井郡小郡町北浦小山温泉山下定方に至り、親子というふれこみでチサ子は四月頃から女中として働き、ついで被告人も五月頃から雑役夫(後に釜焚夫となる)として雇はれ、二人は右温泉浴場に隣接した山下定経営の小郡劇場内の一間をあてがわれて住込みで働くこととなつた。ところが七月頃妻ヤスが被告人と離婚するため同温泉に訪ねて来た際山下の妹古賀ツギヨに被告人とチサ子との情交関係を暴露したため山下定及びその従業員間にこれが知れわたり、松元夫婦と落書されたこともあつた。斯様なことから被告人達は山下方に居辛くなつていたが、更に被告人は山下定から「風呂の温度は六十度位にすると石炭が少くてすむ」と風呂の焚き方につき注意をうけたこと、被告人が熊本の母が病気であるから熊本に行つてくると嘘をいつて、チサ子と二人で久留米競輪に行つて遊んでいたのを山下定の兄山下厚美に発見されたこと、山下厚美より被告人が仕事中酒を飲むことにつき屡々注意されていたことなどもあつて、前々から山下方に嫌気がさしていたところ、九月頃かねて犬好きの被告人とチサ子が迷いこんだ野良犬を飼つていたのに、山下厚美がこれを捨てたことに憤慨して、ついに山下方を辞める決心をし、先ず九月二日頃チサ子が辞め、その十日位後に被告人もやめたが、その際二人は山下方に何らの挨拶もしなかつたし、また辞めると同時に二人は山下方を立退いたこと、更に被告人は山下定方に勤めていた頃同人から新築中の割烹の座敷に使用する畳を時価よりも安く入れる事を請負つていたが、被告人が同人方を辞めてから同人より畳の件を断られたこともあつたこと等が認められるので、これらの事情からみると、本件火災発生当時、被告人は山下定及びその親族に対し必ずしも心よく思つていなかつたことが認められる。しかし乍ら前掲各証拠に第三回公判調書中証人待田憲第二十一回公判調書中同松永金太郎の各供述記載、被告人の当公廷における供述をあわせみると、被告人は山下方を辞めてからチサ子と二人山下方の近くの油倉庫の一間を借受けて居住していたが、屡々山下方に入浴に来ており、又被告人は無償で山下方の劇場の四畳半の間の畳がえをしてやつたり、畳の上敷を三潴まで買いに行つてやつたりした事も認められる。又前記畳の件についても、被告人は山下の割烹の建築を請負つていた大工の松永金太郎から「山下方の畳は作らぬから自分が請負うことになつている大刀洗の病院の畳を入れさせよう。」と言われ、その点についての山下方に対する不満も消えていたようである。

更に本件火災発生の数時間前である十月十八日午後八時頃被告人はチサ子とともに山下方に入浴に来て山下定に対し「友人が印刷所を始め安くて仕事をしているから此処も色々広告しているのをそこに頼んでくれ。」とすすめ、山下定も「それはよい頼もう。」と答えており、その場を見ていた待田憲も「被告人は山下定等に対して気を悪くしていた様子はありませんでした。」と述べている。かかる点からしても、たとえ被告人が前記の如き事情で山下方をやめ山下方に対し多少の不満をもつていたとしても、放火をしてまで恨をはらさねばならない程の怨恨を持つていたとは到底認められないので本件犯行の動機と称すべき程のものは存しないといわねばならない。

(二)  そこで進んで本件証拠(自白を除く)につきこれを逐一検討することとする。

(1)  物的証拠について

先ず物的証拠についてこれをみると、被告人は司法警察員及び検察官に対し「十月十九日午前一時半頃、当時被告人が居住していた油倉庫の床下においてあつた竹皮草履をはいて、小山温泉に至り、持つて来たボール箱にぼろ布を敷き、鉋屑を入れてつつみ込み、石油をふりかけてふたをしてぼろ紐で箱を十文字に結び、男浴場の脱衣場に至り、脱衣箱の中央の箱の下から一番目か二番目かの箱の中に持つて来たボール箱を押込め、箱を少し破つて鉋屑を引出し、それにマッチで点火した。」と述べている。而して右竹皮草履や放火材たるぼろ布等は領置されて公判廷に提出してあるので、果してこれらの物的証拠が自白の真実性を裏付けるに足る証拠価値を有するものであるかにつき考える。

(イ)  竹皮草履について

押収してある竹皮草履(証第五号)は篠塚武蔵の当公廷における供述、裁判所のなした証人川副好文の尋問調書、司法警察員作成の捜索差押調書によれば、本件火災の翌日である十月二十日午前八時頃より同三十分頃までの間警察官が詐欺容疑で被告人を逮捕する際、被告人居住の油倉庫を捜索したところ、上り口床下より発見せられたもので草履の表を重ねて板か何かの上に置いてあり、その当時湿つていたもののようである。ところで被告人はこの点に関し、十二月十二日附警察調書(同じ日附の調書二通のうち、本件犯行の手段、方法等につき述べている分で、以下この判決で単に十二月十二日附警察調書とのみ示すのはそれを指す)で「私は犯行当夜音がせぬ様にチサ子が劇場から履いて来て床の下の石炭箱に入れて鼻緒を手前にして両方共ならべて揃えてあつた竹の皮の草履と履き換えました。」小山温泉に至り「新築中の家を横切つて、水上げポンプの中にかんなくずがあるのを知つて居りましたので、そのポンプの小屋に入りました。その途中ポンプと新築中の家の間に水たまりがありましたので片方と思いますが踏込んで濡れました。」放火した後「私は家に帰つてから直ぐ草履をぬいで表と表を合わせて確か鼻緒を手前と思いますが、石炭箱の下駄箱の上の段に置きましたが、草履はじくじくはして居りませんでしたがぬれて居りました。」と述べ、十二月十三日附検察官調書でも同様の事を述べているので、これによると竹皮草履を警察が差押えたときの状況に一応照応するかのようである。

従つて被告人の右供述は如何にも真実の様な観があると思われないでもないが、以下述べる様な疑もあるので、この竹皮草履の存在を以て直ちに被告人の自白の真実性を裏付ける証拠とはなしえない。

A 竹皮草履と現場足跡の関係

本件火災現場附近の浴場内に足跡が発見されており、それが犯人の残したものとして、立証が進められているのでこの足跡と被告人方から発見せられた竹皮草履との関係につき検討する。先ず本件火災現場を火災中若しくは火災直後目撃した証人の供述をみると、

第三回公判調書中証人山下定の供述記載によると、女湯に何か変つた事はなかつたかの問に対し「足跡のあるのを発見しました。」「釜場との境の扉の附近は水が乾いていたので判りませんでしたが、男女両浴場の境扉附近は水気があつたのでよく判りました。」

足跡はどれ位の距離についていたかの問に対し「男女両浴場の境扉から両方に約一間の距離でした。」男脱衣場の方には足跡がついていなかつたかの問に対し「浴場タイル張の一段高くなつている処についていました。」どんな足跡だつたかの問に対し「藁草履かスポンジ型の踵なし運動靴の足跡ではないかと思いました。」と述べ、

第四回公判調書中証人山下ヨシ子の供述記載によると、「女浴場のタイル張りの上で釜焚場との境の扉より二、三歩離れた処から判然した足跡がありました。」「その足跡は女浴場から男浴場の方に続いていました。」「泥のついた草履の足跡と思いました。」「釜焚場から男浴場の方に進んだ足跡でした。」と述べ、

第五回公判調書中証人小屋松善助は「草履か何か判りませんでしたが素足でない足跡がありました。」「それは女浴場の裏入口から男浴場の方に向つてついていました。」と述べている。

裁判所のなした証人川副好文の尋問調書によると、同人は警察官であつて本件火災後(夜中に)現場に行つた際みた足跡につき、「女湯の裏出入口から這入つて、女湯と男湯の堺になる潜戸を通つて、男湯の方に行つた足跡を見受けました。」「その足跡は女湯の裏出入口の方は判然としていませんでしたが、女湯の湯壺の水が流れていましたので同所からは草履が濡れて判然付いていました。」

「足跡は藁草履の様に思われました。」「それは一人の足跡であります。」と述べている。

最後に司法警察員作成の実況見分調書によると、実況見分は十月十九日午前九時から同十時迄の間行われたものであるが、浴場の足跡につき「釜場より浴場に通ずる板戸を入れば浴場はタイル張となつているが、タイル張の上に足跡を認められる。土が附着している。その足跡をたどるに男浴場より女浴場へ点々と進行方向に足跡があり、タイル張より脱衣場に入る戸の前の部において足跡が乱れて数個重り合つている。その場所附近以外には足跡は認められないが、進行方向と反対に男子浴場進入路の方向へ釜屋に通ずる板戸附近のタイル上に認めうる。」「足跡についてはズックらしきものと認められるが、形体、其の他詳細には判明しない。」と記載されている。

これによると足跡は釜焚場の方から本件火災現場である男脱衣場に向つてついて居り、しかもそれは素足ではなく、草履か運動靴(ズック)の様なものであつたようである。

ところで前記川副好文の尋問調書及び裁判所のなした証人中村佳照の尋問調書によると、川副好文はその足跡を半紙に写しとつたのであるが、この半紙に写しとつた足跡と被告人方から押収された竹皮草履とにつき、第十七回公判調書中証人井尾正隆の供述記載及び福岡県警察本部鑑識課長作成の物品鑑識結果についてと題する書面によると、川副巡査によつて半紙に描かれた足跡は草履かスポンジ草履で印象されたものということであり、被告人方で押収された竹皮草履とその形状、寸法において良く似ているということである。

B 被告人と現場足跡との関係

そこで進んで現場足跡と被告人との関係を内股か外股かという点において調べると、宮城成圭作成の鑑定書によれば、司法警察員作成の実況見分調書添附の写真三枚及び第十八回公判において取調べられた写真二枚(これは第十八回公判調書中証人内田健勝の供述記載によると、本件火災当日である十月十九日朝小山温泉女浴場タイル上にあつた足跡を撮影したものである。)に示された現場足跡は判定不能二枚のものもあるが、判定できるものについては外股であり、被告人の足跡については同じく外股であるということである。

斯様に本件火災現場の足跡と竹皮草履との形状等の類似していることや、現場足跡も被告人も外股であるという点からみると或は現場足跡は被告人――勿論その履いている竹皮草履によつて印されたものではないかとの疑を生ずる。

しかし、前掲現場に残された足跡の写真数葉のうちには一見、直感的にそれが内股の人の足跡と見得られるもののあることを看過する訳にはいかないばかりでなく、又仮にそれが右鑑定書にいうとおり外股の人による足跡だとしても、外股の点については何も被告人一人が外股であるのではなく、世間には数多くの外股の人があり、ことに男性においては勿論例外はあるであろうが通常外股であると云われている点などを考えると、特にこの点を取上げて被告人の有罪を決する資料とはなしえない。次に現場足跡と竹皮草履との形状の類似の点につき考えると、先ず本件竹皮草履が被告人方においてあつた事情につき第八回第十回公判調書中証人松元チサ子の各供述記載によると、押収してある竹皮草履はもと山下定経営の劇場にあつたものであるが、被告人とチサ子とが九月頃同人方を辞め、小郡町の三池方に引越した際、チサ子と引越を手伝つた元山下方の女中の久米とが下駄の代りに劇場においてあつた竹皮草履を各自履いて行つたもので、その後被告人達が三池方より油倉庫に引越す際も、チサ子はその中一足を履いて油倉庫に移つたもので、其後山下方に返さずに同所に置いていたものであるが、もともと右劇場には同種の竹皮草履が十足位あり従業員達が履いていた事が認められる。

このことは裁判所のなした証人鶴久由子の尋問調書によるも同女は押収してある草履(証第五号)を示してなされたこの様な草履は劇場にどれ位あつたかの問に対し「常時十足乃至二十足位用意してあつたと思います。」穿散して紛失する様な事はなかつたかの問に対し「ありました。そして紛失した様な時は次々に補充されていました。」と述べている事によつても認められる。

従つて証第五号の竹皮草履と同種の草履は山下定方においてさえ十足乃至二十足位常時あつた事が認められるとともに、押収してある竹皮草履をみるとこれはごくありふれた草履で、これと形状、寸法、材料等において同種同質の草履は世間一般に多く販売されていることはいうまでもない。

そこでたとえ犯行現場の足跡が証第五号の竹皮草履によるものと良く似ているとしても、右草履と形状、寸法、材料において同種同質の草履が他に数多く存在する以上、被告人方から押収された証第五号の竹皮草履そのものによつて現場足跡が印されたものと認めることは到底出来ない。

C 次に本件竹皮草履は十月二十日警察官が被告人方で発見した際草履の表と表を重ねて置いてあり、その当時湿つていたということであるからこの点につき検討する。

第十回公判調書中証人松元チサ子の供述記載によれば、同女は前記の様に山下定経営の劇場より三池方に移転の際本件竹皮草履を履いて来たものであるが、「三池方から油倉庫に引越す時も私がそれを履いて来ました。」「油倉庫に引越したのは十月一日頃でした。」

その後その草履は畳を積んだ車を小山温泉の踏切のところまで押して行く時一回履いただけです。」「それは小山温泉で火事のある一週間位前のことでした。」「その時は天気は良い日でした」「その時使つた草履は油倉庫の部屋の上り口の横の床下に置いたと思います。」「草履は二つ並べて揃えて普通に置いたと思います。」その後証人はその草履を使つたことはないのかの問に対し「はい、ありません。」被告人がその草履を使用していたことはないかの問に対し「私は被告人が使用しているのは見たことがありません。被告人は別にゴム底になつている草履を持つていたので、何時もその草履を履いていました。」「草履が濡れるということは思い当りません。」と述べている。これによると同女が竹皮草履を本件火災の一週間位前に履いた後床下に揃えて置き、その後警察官が家宅捜索にくる迄使わないでいたところ、警察官が本件火災の翌日である十月二十日に家宅捜索をして、床下においてある竹皮草履を発見した際、草履は重ねておいてあつて同女の置方とは異なつており、又同女が使つた際湿つていなかつた草履が湿つていたこととなる。そこで或は被告人がチサ子が履いて床下に置いていた草履を本件犯行の際履いて行つたため草履の置方が変つたり、又被告人は前記十二月十二日附警察調書によれば本件放火に行く際水たまりに足を踏込んだと述べているのでそのため草履が湿つたのではないかとの疑も生ずる。

そこで右被告人方の家宅捜索の際本件竹皮草履を目撃した証人の供述を検討すると、裁判所のなした証人川副好文の尋問調書によると、同人は(警察官であるが、証人篠塚武蔵の当公廷における供述によれば被告人方に家宅捜索に行つたことが認められる。)草履はどこにあつたかの問に対し「上り口の床下にあつて板か何かの上にありました。」どの様にして置いてあつたかの問のに対し「表と表を重ねて置いてあつたと思います。」その草履を見て気付いた事はないかの問に対し、「一緒に行つた警察官の中誰かが湿つているぞと云いましたので見ましたところ草履を置いてあつた板に湿つた後があつた様にも記憶します。そして誰かがその湿り具合を鑑識に出さねばならんと云つていました。」と述べている。同じく十月二十日に被告人方に捜索に行つたと認められる証人中村佳照の裁判所のなした尋問調書によると、同人はその草履をみて感じた事はなかつたかの問に対し「手にしましたところ少し湿つていましたので現場の足跡の草履ではないかと思いました。」何の様にして置いてあつたかの問に対し「重ねて板か古材木の上に置いてありましたが、どの様に重ねてあつたか判然記憶しませんが、底と底を合せて置いてあつた様に思います。」草履の下の板は湿つていたかの問に対し「湿つていなかつたと思います。」と述べており、前記川副証人の供述と異つている。

しかしここで注意すべきことは竹皮草履が湿つていたとか、重ねて置いてあつたとか云つても、それは警察官が一方的に主張するだけで、本件竹皮草履を警察官が差押えたとき警察官以外に立会つた者がいないことである。もつとも前記捜索差押調書によると、差押の立会人の欄に三井郡小郡町北浦松元久四十四年と記載され、差押のてん末の欄に自宅に於て逮捕令状を示して被疑者松元久を逮捕し必要により同人立会のもとに逮捕の現場で捜索した処―竹皮草履一足―を発見し証拠品として別紙目録書の通り押収したと記載されておつて、恰も被告人が差押の際立会つたかのようになつている。しかし前記川副好文、中村佳照の各尋問調書、第十回公判調書中証人松元チサ子の供述記載、被告人の当公廷における供述によると警察官が十月二十日被告人方を捜索の際被告人は在宅せずチサ子一人居たことが認められる。したがつて前記捜索差押調書の記載はその点において誤りであることが認められる。

ところで在宅していたチサ子も右供述記載によると、警察官が床下から草履を見つけその草履を手に取る前に証人はその草履を見たかの問に対し「見ていません。」警察官はその草履は床下に二つ重ねてあつたというがその点どう思うかの問に対し「その点は知りません。」と述べている。従つて本件竹皮草履を発見した際警察官以外の者は立会つていないこととなる。そこで警察官は前記の様に草履が湿つていたとか重ねて置いてあつたとか主張しているが前記捜索差押調書の誤りの如き例もあるのでそれを全面的に信頼するわけにはいかない。

たとえ警察官の主張どおりであつたとしても、前記川副証人は草履を置いてあつた板に湿つたあとがあつた。」と述べるのみで草履そのものが湿つていたか否か不明である。中村証人は「草履が湿つており、草履の下の板は湿つていなかつたと思います。」と述べている。斯様に同じ捜索員で且つ目撃者の間でも草履の湿り方につき異つた供述をしている。又同じく捜索員であつた証人篠塚武蔵の当公廷における供述によると「草履は少し湿つていました。触つてみました。」と述べているが、同人の供述は曖昧な部分が多く信を措くに足りないが、たとえ湿つていたとしてもその程度については詳らかでない。

以上の次第でいずれの証言によるもその湿り具合が明確ではないので、被告人の前記供述にある様に水たまりに足を踏込んだ程度に湿つていたのか、又は前記中村証人の供述によると本件火災発生当時女湯の掛湯の所に水が流れていたことが認められるのでそれに濡れた程度湿つていたのか、或いは又前記松元チサ子の供述によると、同女は本件火災一週間前頃本件竹皮草履を履きその後履かずに床下に置いたままであつたことが認められるので、それから本件捜索の日までの間には雨が降つた日もあつたのであろうから、床下に置いたままであればその間通常は多少の湿気は帯びる筈であるからその程度に湿つていたのか不明である。従つてただ本件竹皮草履が湿つていたというのみを以ては被告人の有罪を決する資料とはなしえない。

又草履の置き方にしても川副証人は「表と表を重ねて置いてあつたと思います。」と述べ中村証人は「底と底を合せて置いてあつた様に思います。」と述べ、まるで反対の事を述べているし、更に前記松元チサ子の「草履は二つ並べて揃えて普通に置いたと思います。」という供述自体も相当日数を経過した後の供述であるから何か特別の理由のない限り正しい記憶に基ずくものかどうか疑わしい。(尤も被告人の当公廷における供述によると、同女が最初に警察の取調をうけたのは同女が最初に警察の取調をうけたのは同女が十二月六日に逮捕されてからと認められる。しかしそれにしても同女が床下に草履を置いたときより一月半余り経過している。)従つて本件竹皮草履が発見された際、その置き方がチサ子がおいていたのとは異つていたとしても、基準となるチサ子の供述自体疑わしいし、更に前記の様に草履が重ねてあつたという目撃者の供述にもくい違いがあるのでいずれが真実であるか明確でない。そこでかかる疑わしい証拠を以て被告人の有罪を決する証拠とはなしえない。

D ところで、今まで検討してきたのは現場足跡が犯人の残したものとの前提に立つものであるが、又翻つて考えると現場足跡が果して犯人の残したものであるかどうかは判らない。前記認定のとおり小山温泉経営の山下定方には竹皮草履が常に十足乃至二十足位備付けてあつて家族、従業員等が使用していたこと、又当裁判所のした昭和三十年三月二十二日附検証調書によると山下定夫妻の部屋は釜焚場に近い四畳半の間で、そこから男脱衣場の本件火災現場に行くには、釜焚場の横にある浴場との境の扉口から女湯のタイル張の流し場を通らねばならないことも認められるので、これらの点を考え併せると火災の発生した騒動、混雑の際ではあるし、火災発生から最初に警察官が来るまでの間乃至実況見分がなされる迄の間、相当に、人の往来があつたであろうことは容易に想像されるので、或は家人、従業員その他の者によつて、残された足跡ではなかろうかとの疑を容れる余地がないでもないであろう。尤も右検証調書中、小屋松善助は立会人として指示した際、右足跡は、火災発見者の同人が浴場を通つて釜焚場に出る扉口から出て山下夫妻を起し、火災現場に同じ道を引き返すときに発見したと述べているが同人は第五回公判期日において右足跡の発見時期については何も述べていないばかりでなく証人山下定は第三回公判期日において右足跡は本件火災が放火と判つた後に発見したと証言しており、又証人山下ヨシコも第四回公判期日においてこれと同趣旨の供述をしておるし、その他当審で取り調べた証拠によつて窺い得る諸般の事情に照らして疑わしい点があるので容易に措信することはできない。

これを要するに被告人方から発見された竹皮草履(証第五号)にはこれをめぐつて種々疑わしい点があるのでこれを以て被告人の自白の真実性を裏付ける証拠とはなしえない。

(ロ)  ぼろ布(証第二号)について

証第二号のぼろ布は本件火災の現場である男脱衣場内脱衣箱(三十三番)から本件火災直後発見せられたもので、本件放火の供用物件と認められる事は前記認定のとおりである。ところで被告人は警察並びに検察庁においてぼろ布の入手先から油倉庫に持つて来た経過に至る迄詳細に述べている。即ち被告人の十二月十二日附警察調書によると「私が昨年八月頃新屋敷の妻ヤスの処から荷物を取つて来る際、ミシンの頭がガタガタ動かぬ様に包んで荷造りするため一ヶ月位前新屋敷炭坑の用度課の早川という係員の当直の夜機械をふく為めに要ると思つて其の人の許を受けて電球一個とコードと継ぎはぎだらけのはんてんとモンペーの様な同じつぎはぎだらけの作業ズボンをもらつて来て居り、其のボロはんてんとズボンは二階にほうり上げて居りました。其のはんてんは袖等ついて居り原形はありましたが、そのボロと薄い夏シャツのボロをミシンの頭を折り込む処へつめ込みました。」「ミシンは福岡市春吉の小田ミチヨ方に其のまま持つて来て置いて居りましたが―ボロはそのまま台の中につめ込み―吉浦さん方に引越して来る時も其のボロは其のまま台につめて居りましたが、小山温泉に引越する時は台を隣りの部屋に居られる村上さんに預けたので、その時ボロを取り出しボール箱の丈夫なシユロプなの紐がついた洋服箱位の幅の一尺位の深さの箱の中に入れて小山温泉の劇場の横の部屋へ持つて来て茶棚の上に置いて居りましたが、本年台風が来ると云つて来なかつた時、(九月頃)雨漏りがしたので後片ずけをする時布団袋の中に入れて居りました。そしてそのまま私が荷造りして三池さん方に持つて行き、更に油倉庫に持つて来て布団袋に入れたまま仕事場の壁の処へ掛けて居りましたが、十月十日頃邪魔になるので布団袋を外し、中のボロはもう要らないと思いまして倉庫の入口の処に丸めて棄てて居りました。」と述べ十二月十四日附警察調書では十二月十二日附調書中早川の許をえてボロをもらつたという点を改め「昨年六、七月頃新屋敷炭坑の用度に遊びに行きました。用度課倉庫係で佩川という四十三、四才が用度の倉庫の中の事務所で当直して居られました。私は帰る際電球とコードを下さいと云いました。佩川さんが判らん様に持つて行きなさいと云われましたので、私が一人で倉庫に入つて電球一個とコードと倉庫の中の中間位の三尺四方位の大きい木箱に入つていた一昨日申上げた上下のつぎのあつたボロをもらい家に持つて帰りました。佩川さんも倉庫を私が出る時知らぬ振りをしていましたのでボロ迄は見ていないかも知れません。私が放火に使つたのはその上衣の方のボロに間違いありません。」と述べている。

A 証第二号のぼろ布の入手先について

被告人の前記供述調書によると新屋敷炭坑の佩川から貰つた上衣(はんてん)のぼろが証第二号のぼろ布に該当するもののようである。しかし被告人は当公廷において証第二号のぼろ布を佩川から貰つたことはなく証第二号のぼろ布は知らないと否認しているので検察官は右供述の証明力を滅殺するため刑事訴訟法三百二十八条で佩川喜蔵の司法警察員に対する供述調書を提出された。そこで右調書をみると同人は昭和二十三年七月十六日から新屋敷炭坑用度課倉庫事務所に勤務しているが「昨年(昭和二十八年)の盆前頃、私が倉庫事務所で勤務していた時、松元が買物篭を下げて来て電球とコードを下さいと云いました。」「私は平素より親しい仲であり、信用もして居りますから電球は貴男が行つて取つて来なさいと云つて、私は事務所内の南角から室内電燈コード線を計つて切つてやりました。電球は事務所の二階の倉庫の上つて直ぐの南角に置いて居り、松元は倉庫内の事情を良く知つて居りますので買物篭を提げて二階に上つて行きました。そして松元が階段を降りて来た時コードは其処に置いたよと云つて松元は置いてあつたコードを自分で取つていましたので、買物篭の中まで見て居りませんので、其の時ボロ迄持つていつたかどうか気が付きませんでした。」「新屋敷炭坑はボロを機械ふきや手ふき用として月に三十貫位消耗して居ります。一番少量の時の在庫でも十五貫以上は常に在庫して居り、そのボロは事務所の二階の倉庫の電球置場より少し奥の方に保管して居りましたが、大低が五貫位が一梱包で積み重ねて居りました。然し場合に依れば少量ずつ払出す事もありますので、梱包を解いたバラバラの分も置いてあります。」山下方男湯脱衣箱に放火した際使用したボロ(証第二号)と山下ヤス提出のボロ(証第四号)を示され「この様なつぎを当てたボロも在庫していた事はありました。」「然し―只今見せられたボロが倉庫に入荷した品物であると云う事迄は断言出来ません。」と述べている。これによると証第二号のぼろ布の様なつぎの当つたぼろも新屋敷炭坑の倉庫には在庫することはあるが、被告人が電球等を貰いに来た際証第二号のぼろ布が確かに在庫していたかどうかは不明であるし、又在庫したとしても被告人が証第二号のぼろ布を買物篭に入れて黙つて持つて帰つたかどうかも亦不明である。従つて被告人が証第二号のぼろ布を佩川から入手したものであるとはいえないので同人の供述調書を以てしても被告人の証第二号のぼろ布は佩川から貫つたものでもなく知らないという旨の当公廷における供述の証明力を滅殺することはできない。

更に被告人は前記警察調書で佩川から貰つた「継ぎはぎだらけのはんてんとモンペーの様な同じつぎはぎだらけの作業ズボンは二階にほうり上げて居りました。」と述べているが、被告人の前妻であり、被告人が佩川からぼろを貰つたと称する頃、新屋敷の被告人方に居住していた山下ヤスは第六回公判期日において、警察官からぼろ布を見せられた事があるか(証第二号のぼろ布と認められる)の問に対し「はいあります。」「警察官が一回目に来られた時で之に見憶えないかと云つて見せられたのでないと答えました。」と述べている。これによつても被告人が確かに佩川から証第二号のぼろ布を貰つてきたのであれば、同居していた山下ヤスも見憶えがあつたかも知れないが、見憶えがないところからみても証第二号のぼろ布を被告人が佩川から貰つてきたとみるのは疑わしい。

B 証第二号のぼろ布を油倉庫に持つて来たという経路について

次に被告人は前記の様に警察調書で佩川から貰つたぼろ布の中はんてんの方は「昨年八月頃新屋敷の妻ヤスの処から荷物を取つて来る際ミシンの頭がガタガタ動かぬ様に包んで荷造りするため―そのぼろと薄い夏シャツのボロをミシンの頭を折り込む処へつめ込みました」と述べている。なるほど第八回、第九回公判調書中証人松元チサ子の供述記載によると、被告人はチサ子との情交関係が妻ヤスに知れたため、チサ子は家を出て福岡市春吉三番丁小田ミチヨ方に間借りをし、被告人も来て同棲していたが、昭和二十八年七月末か八月頃被告人は新屋敷の家に帰り、ミシンヤ行李などの荷物を持出し、小田方に運搬したことが認められる。ところで前記山下ヤスの供述によると、同女は被告人が新屋敷の家から荷物を持出す際これを見ていたものであるが、被告人がミシンを持つて行く時布を持つて行つた事はないかの問に対し「ミシンを白絹で包んでいましたからその儘持つて行つたのであります。」ミシンを拭く為のぼろ布を持つて行つた事はないかの問に対し「その点は判りません。」と述べている。又荷物が福岡市の小田方に到着した際、荷物を二階に運び上げる手伝をした松元チサ子は第十回公判期日において、新屋敷から博多に運ぶ時ミシンは何で包んで行つたかの問に対し「ワイシャツの絹の破れたものとか、ビロードみたいなごついものの布でミシンの頭だけ包んで運びました。」その布はぼろ布かの問に対し「ぼろと云えばぼろですがつぎはぎはしてありません。」と述べている。これによると証第二号のぼろ布でミシンの頭を包んで福岡に持つて来たことは認められないようである。

尤も被告人が当公廷においてミシンの頭を証第二号のぼろ布で包んで持つて来たことはない旨否認しているのでその証明力を争うため検察官より刑事訴訟法第三百二十八条で提出せられた同女の十二月十二日附司法警察員に対する供述調書によると「父ちやん(被告人のことを指すものと認める)が新屋敷からミシンを運んで小田さん方に来られた時、私も居て二階の部屋に上げる時も手伝つて居りますが、其の時ミシンの頭のキズのつかん様何か使つて居たかと尋ねられますが、その時ボロ布で包んで来てあつた事は知つて居りますが、どんなボロ布であつたか良く覚えて居りませんが、今見せて貰えばひよつとしたら多少の記憶と一致するかとも思います。つぎはぎの古物のボロ布で色は紺だつた様な気もしますが正確に覚えて居りません。」と述べている。右供述によると証第二号のボロ布と色やつぎの当つた点等類似しているところはあるが、同女も正確には覚えて居りませんと述べているし又証第二号のぼろ布を示されてこれと同じものであると述べているわけでもないから、これを以て被告人の前記当公廷における供述の証明力が全面的に減殺されるわけではない。かえつて前記の様な同女や山下ヤスの公判期日における各供述があるので被告人がミシンの頭にかぶせてきたものは証第二号のぼろ布であると断定するわけにはいかない。

更に被告人は前記警察調書で証第二号のぼろ布は「布団袋に入れたまま油倉庫の仕事場の壁の処へ掛けて居りましたが、十月十日頃邪魔になるので布団袋を外し中のボロはもう要らないと思いまして倉庫の入口の処に丸めて棄てて居りました。」と述べているが、被告人と油倉庫で同棲していたチサ子は前記第十回公判期日において、油倉庫にはぼろ布はあつたかの問に対し「私が知つている範囲では私が一寸した袋に入れていただけでそれらは私の洋服の着古しのぼろ布です。その他には別にぼろ布はありませんでした。」と述べている。

以上検討してきた如く被告人は前記警察調書で証第二号のぼろ布の入手先や、それを油倉庫まで持つて来た経路につき詳細に述べているがこれを裏付ける証拠がないので、この点に関する被告人の供述は真実性があるとはいえない。

C 証第二号のぼろ布と証第四号のぼろ布との関係

しかしここで注意すべきことは証第四号証のぼろ布が被告人の前妻山下ヤスから提出された事である。その提出の理由について山下ヤスは第六回公判期日において「最初駐在所に呼ばれてぼろ布を見せられ、こんなぼろ布はないかと尋ねられたので、あるかないか判るので見ておきましようと答えたら、あれば持つて来て呉れと云われたので、その後駐在所に持つて行つたのであります。証人が駐在所に届けたぼろ布は被告人が家出する前からあつたのかの問に対し「はい、そうであります。」証人は警察官がぼろ布を持つて来た時それと同じ様なぼろ布があつたので届けたのではないかの問に対し「以前からあつたぼろ布は一つ丈けしかなかつたのでそれを届けたのであります。」と述べている。

ところでこの証第四号のぼろ布はつぎの当つたズボンであつて、被告人の十二月十二日附警察調書では「新屋敷炭坑でもらつたのは継ぎはぎだらけのはんてんとモンベの様な同じつぎはぎだらけの作業ズボンであつた。」「ズボンのボロは妻のヤスが棄てて居なかつたらまだ二階にあるはずであります。」と述べている。そこで被告人の右供述の中のズボンのボロとは山下ヤス提出の証第四号のぼろを指しているものと認められるので山下ヤスより証第四号のぼろ布が提出された事は被告人の右供述が真実であつたことの裏付けをなす観がある。

即ち佩川からはんてんのぼろ(証第二号のぼろを指すものと認められる。)と同時にズボンのぼろ(証第四号)も貰つてきて、はんてんのぼろはミシンの頭を包んで福岡に持つて行つたが、ズボンのぼろだけ新屋敷の家に置いていたので、山下ヤスがさがして警察に提出したともみられるふしがある。しかし佩川からぼろを貰つたという点については前記のごとき疑もあるのでこれを措信するわけにはいかない。かえつて山下ヤスの右供述記載によると証第四号のぼろ布は「機械拭の為私方の前の日満工業株式会社から被告人が貰つて来ていた布でズボンでした」と述べている。

この点からしても証第四号のぼろ布の存在は被告人の前記供述の真実性の裏付けとなるものではないと考える。

次に証二号のぼろ布と証四号のぼろ布につき福岡県警察本部鑑識課長作成の物品鑑識結果についてと題する書面によると、証第二号のぼろ布と証第四号のぼろ布は生地については同一のものとは認められないが、縫糸は三本捩り木綿糸で、二本を同時に使用してをる箇所あり、又六本(放火材料ボロ)、五本(領置ボロ―証第四号)捩り糸等太い糸を使用している点(従つて針は大きいものを使用)甚だ修理箇所が多い点似ている旨記載されている。

この点からみると斯様な類似点のあるぼろ布は何処にでもあるものではなく、出所は同一なのではなかろうかとの疑も生ずる。

そこで第十一回公判調書中証人山田哲夫の供述記載によると、同人は警察官で直接本件の捜査に従事した者であるが「ボロ布(証第二号のぼろ布を指すものと認められる)の出所については小郡近郷の郡内全部或は近くの村迄一軒一軒について調べましたが、その出所が判りませんでした。」と述べ、なお同人は当公廷においても「ボロの捜査は現在の小郡町(当時の五、六ヶ町村)其他久留米市、鳥栖市内を調べ、現在の小郡町は一軒一軒虱つぶしに調べました。」「五人の家族があれば五人について調べる程にしましたが、当時筑後附近ではこのようなボロ布を使うことはないということが明らかになりました。」と述べている。即ち本件火災発生場所である小郡町附近には証第二号の如きぼろ布は存在しないこととなる。しかし果して山田証人の供述の如く小郡町附近に証第二号の如きぼろ布が当時存在しなかつたであろうか。

たとえ同人の供述する様な捜査が行われたとしても、警察官から証第二号のぼろ布を示され、こんなぼろはないかと聞かされ、あると答える者が何人あるだろうか。普通は警察(ひいては犯罪)とかかりあいになる事を恐れてあつてもないと答えるのが人情ではないかと考えられる。又仮りに小郡近郊には証第二号の様なぼろ布はなかつたとしても、他の地方にはあるかも知れない。小郡近郊にないからと云つて直ちに証第四号のぼろ布の出てきた新屋敷から証第二号のぼろ布も出たものと断定することは、早計であろう。

D 山下定方にぼろ布が存在していた事実について

なお司法警察員作成の実況見分調書によれば「衣類については釜場には小量のボロ切れは認められるがそのものとは異つている」旨の記載がある。これによると証第二号のぼろ布とは異つてはいるが、山下定方にもぼろ布が存在していたことが明らかであり、しかもそれは本件犯行の現場の近くである釜場に存在していた事実が認められる。

以上の各点からして本件犯行の供用物件である証第二号のぼろ布は被告人方から出たものであると断定することが出来ないので証第二号のぼろ布の存在を以て被告人の有罪を決する資料とはなしえない。

(ハ)  ボール紙(証第一号)について

押収してあるボール紙も本件火災発生直後山下定方男脱衣場の脱衣箱(三十三番)から発見されたもので、本件放火の供用物件であることは前記認定のとおりである。ところで被告人は十二月十二日附警察調書で放火に使用した箱は「本年二月頃福岡市柳橋市場川辺から入る突当りの附近の菓子専門の店からセンベイを買つた(二百円位)時、袋が破れたらいけないと思つて主人に云つたら空箱に入れてくれましたので持つて帰りましたが、其の箱は質が悪いザラザラしたボール紙の高さ約六寸、縦が五寸、横が七寸位で、横に赤で確かビスケットと思いますが字を書いたレッテルを貼つてありました。」と述べ、

十二月十四日附警察調書では「その箱は小田ミチヨさん方の二階の茶棚の一番下の戸棚の中に入れて居り食べてしまつてから箱は押入れの中の木箱の中に入れて居りました。其の箱で放火したのに間違いありません。」と述べている。そこで証第一号のボール紙が被告人の自供通り果して被告人方にあつたものであるか否かにつき検討する。

第十一回公判調書中証人玉川文子の供述記載によると、同女は福岡市柳橋近くの花園町に住み菓子の製造販売をしている者であるが、菓子をボール箱に入れて売ることがあるかの問に対し「遠方に持帰る客の便宜をはかり空箱に入れてやることがあります。」押収してある証第一号のボール紙を示され、そのボール箱と同じ物が或は同種類の品を取扱つたことはなかつたかの問に対し「この焼残りを見た丈けでは何とも申上げられません。」被告人を指され、被告人を知つているかの問に対し「知りません」と述べている。これでは被告人が同女方で菓子を買つたのかどうか、又菓子を買つたとしても証第一号のボール箱に入れてもらつたのかどうか不明である。かえつて被告人の証第一号のボール紙を知らない旨の当公廷における供述の証明力を争うため検察官より刑事訴訟法第三百二十八条による書面として提出された松元チサ子の司法警察員に対する十二月十三日附供述調書によれば、「福岡の春吉三番町の小田さん方に父ちやん(被告人を指すものと認める)と一緒に居る頃の本年一、二月頃からは勿論、づつと居た間に父ちやんがセンベイとか菓子をボール箱に入れて貰つて来られて居たことを見た事はありません。」と述べている。これは被告人の前記当公廷における供述の証明力を減殺しないばかりでなく、被告人の右供述こそ真実ではないかとの観をいだかせるものである。従つてかかる点からも被告人の前記警察調書中この点に関する供述は真実とみとめることはできない。

(ニ)  鉋屑(証第三号)について

押収してある鉋屑も本件火災発生直後山下定方男脱衣場の脱衣箱(三十三番)から発見せられ、本件放火の供用物件であることは前記認定のとおりである。ところで被告人は十二月二十日附警察調書で本件放火の際「カンナ屑を取つたのはポンプ小屋の中のカマスの中にカンナ屑が六合か七合位つめてありましたのでその中から取出しました。」と述べている。

そこで当時カンナ屑がポンプ小屋にあつたかどうかにつき検討する。

先ず司法警察員作成の実況見分調書によると「本家屋東側に旅館が新築中であり、旧パチンコ店より七米西側道路端より一米の藪中にかんな屑及び塵捨場がある。」「かんな屑については北側(炊事場塵捨場)にも小量の屑があるが現場のものとは相違するよう認められる。」と記載され、裁判所のなした昭和三十年十月二十六日附検証調書によると立会人山下よし子の指示説明として「本件当時附図第一図<F><G><H><I>の各部分は増築中であつた為同部分には方々に鉋屑が散乱していました。」と記載されている。ところで附図をみると<F>は調理場で<G>は割烹、<H>は食堂<I>は記載されていないが同検証調書によると新しく最近増築されたものと見ゆる趣旨の記載がなされている。

これによるとポンプ小屋があつたかどうか又あつたとしても同小屋の中にカンナ屑があつたと認める証拠がないので押収されている鉋屑は被告人の前記供述の様にポンプ小屋にあつたものかどうか不明である。

従つて鉋屑の存在によつても被告人の自白の真実性を裏付ける証拠とはならない。

(2)  情況証拠について

以上物的証拠につき逐一検討してみたので次に物的証拠を除く情況証拠につき検討し、本件火災が被告人の犯行によるものと推認することができる事実があるかにつき判断することとする。

(イ)  先ず裁判所のなした証人鶴久由子の尋問調書によると同女は、「十月十八日の晩午後十二時頃から翌朝一時頃までの間に当時の食堂の一部に寝ました。床について暫く夫と話しましたが、夫が眠についた頃人の足音が聞えました。その足音は寝ていた部屋の外側でコンクリートの所でありました。足音は草履の様に思われました。足音はこつそり歩いている様に聞きました。」と供述している。これによると時刻及び履物の関係から犯人の足音ではなかつたかと思わせるものがある。

ところで被告人は十二月二十日附警察調書で「私は放火しようと思つて山下さん方へ行き、食堂の炊事場が一番最後まで片づけ物で起きて居り、一日の売上高も炊事場の処で計算する事を知つて居りましたので、旅館の玄関と食堂炊事場の出入口の間を通つて様子を見に行きましたが、其の時鶴久夫婦が寝ている部屋に小さな電気がついていた様でしたが、他は電燈は消してあり人が起きている気配はありませんでした。」と述べている。これによると被告人は犯行当夜鶴久夫婦のねていた食堂の附近まで様子をうかがいに行つていることが認められるので、或いは鶴久由子の聞いた足音は被告人の足音ではなかつたかとの疑も生ずる。(裁判所のなした昭和三十年十月二十六日附検証調書中同女の指示説明した足音の位置からみても被告人の右供述と符合するようである。)しかし同女の右供述記載によれば足音をきいたのは「二つ位」と述べているので、その程度聞いたぐらいで履物の種類から足音の進行方向に至るまで判別できるであろうか、同女自身右供述記載で「瞬間的に足音と感じたのでありまして、その後で鼠の音だつたかなと思いました。」と述べている。よつて同女の前記供述記載を以て人の足音がしたものと認めることはできない。

(ロ)  次に第十回公判調書中証人松元チサ子の供述記載によると検察官は同女に対し「十八日の晩被告人が寝床から出て又寝床に戻つて寝たことを証人は気付かなかつたか」とか「被告人が寝床から出て行き又戻つて来て証人の横に寝たので被告人の身体の温度が変つたことに気付かなかつたか」の問を発している。これは恐らく刑事訴訟法第三百二十八条で検察官より提出された同女の十二月十二日附警察調書に「十月十八日の晩午後十時過寝入つてから父ちやんが便所に行かんねと云う声が耳に這入り目が覚めましたが、父ちやんはその時寝間から出て居られました。ううん行かんと返事して起きんまま寝て居たら、父ちやんが私の横に寝間に直ぐ這入つて来られました。その時今迄に父ちやんが用便に行つて寝間に這入られる時の体の障る暖かさと変つて特別に冷えては居りませんが一寸冷え気味を感じさせられました」と記載されていることによつて、前記の様な発問がなされたと推認されるが、これに対し同女は右公判調書の供述記載によると「別にそんなことは気付きませんでした」と右警察調書と異つた供述をしている。従つて、若し検察官において松元チサ子に対する前記発問の趣旨に副う事実を立証しようとするならば、警察におけると同趣旨の供述をした同女の検察官調書を刑事訴訟法第三百二十一条第一項第二号に則り、その取調を請求しなければならないと思われるのに、どうしたことか検察官は同女の右警察調書と同趣旨の検察官調書の取調を請求していないので同女が警察で述べている様に被告人が犯行当夜一旦、寝床から出て後また冷えた体で寝床に入つてきたことを認定することはできない。

(ハ)  更に検察官は論告において、被告人は本件火災の当日、被告人方の近くの八百屋に買物に行かないで遠くの山下定方の隣りの篠原八百屋まで買物に来ており、しかも山下方に火事見舞もしていない。これは被告人が本件犯行をなしたことを推認させる事実であると主張される。なる程被告人の十二月七日附及び八日附各警察調書(各否認調書)によると本件火災の朝篠原方に買物に行つた事は被告人自ら認めるところである。しかし右被告人の供述調書によると、篠原八百屋に買物に行くのはその日に限つた事ではなく、今迄にも数回行つたことが認められる。従つて今まで篠原八百屋に買物に行つたことがないのに、急に火災の朝行つたとあれば、或は火災の模様を見に来たのではないかとの疑も生ずるであろうが、今迄数度買物をしている以上、被告人が偶々火災当日買物に行つたからと云つて特に不審はない。

次に被告人が山下方に火事見舞をしていない点であるが、これも被告人の前記供述調書で認めるところである。しかし、被告人が篠原八百屋に買物に行つた際同店では山下方の火災の話は出なかつたことが認められ、更に山下方の火災は司法警察員作成の実況見分調書によると、脱衣箱の一部を燃した程度であつて、外部からは全然火災のあつたことは発見できないのであるから、被告人が犯人でない限りその当時山下方の火災を知る筈がない。

従つて火事見舞するわけがない。しかし被告人は前記供述調書によると、その日の夕刊フクニチで山下方の火災を知つたものであるが、火災を知つた後も火事見舞に行つていない事が認められる。しかしこの点についても、山下方の火事が大火ならば兎も角ボヤ程度であつて被害も僅少であるから行かなかつたからと云つて放火の疑をかけられる程不審なことではない。

よつてこのことからして被告人の本件犯行を推認することはできない。

(ニ)  又検察官は論告において被告人が本件火災の前後頃夢でうなされ精神の安定を欠いていたことを以て、被告人が本件犯行をなしたことの情況証拠と主張されるのでこれについて検討する。

第十回公判調書中証人松元チサ子の供述記載によると、同女は被告人が夜悪い夢を見たということはなかつたかの問に対し「被告人がうなされていたので私が起したら被告人は小山温泉の者から殴られていたという様なことを云いました。」「山下厚美から殴られていたとか虐められていたとかいう様なことを被告人は云つていました。」「それは火事のある何日位前だつたか現在は記憶しません。」証人は警察では火事のある一週間位前だと述べているがどうかの問に対し「警察でその様に述べているなら大体その頃だと思います。」更に警察に逮捕される前に村上方にいた時被告人がうなされたことはないかとの問に対し「逮捕される前の晩に被告人が一回うなされました。」そのことについて証人は、警察で村上方で寝ていた時、被告人がうなされて苦しがつたので被告人を揺り動かして起し、どうしたかと聞いたら、被告人は大きな広い家に入つたら自然と戸が閉じて出られなかつたので、戸を叩いて開け様としたけれども戸が開かずに苦しんでいたと云つたと述べているがどうかの問に対し「はい、その様なことはありました。」と述べている。これによると被告人は検察官主張の様に本件火災の一週間前と火災後被告人が逮捕される前の晩(十二月五日の晩となる)と夢をみてうなされていたことが認められる。しかし夢をみてうなされることは犯罪をおかしたことによつてもありうるであろうし、又犯罪をなさなくともありうる。

従つて被告人が夢でうなされたからと云つて被告人が本件犯行をなしたとは認められない。

以上物的証拠及び情況証拠について逐一詳細に検討したが、縷々説明したとおり、疑を挾む余地が多いため、各証拠の証明力は薄弱であつてその各証拠の一つ一つによつても、本件犯行と被告人との結びつきは、これを認めることができないばかりでなく、又右各物的証拠及び各情況的証拠を綜合しても、亦到底これを認めるに由ないものといわねばならない。

(三)  被告人の自白について

ところで被告人は警察官、検察官に対し詳細に犯行を自白している。そこでこの自白調書につき検討することとするが、その前に被告人は検察官調書につき被告人が検察官の取調べの際述べていないことまで記載してある旨主張するのでこの点につき検討する。(1)即ち被告人は当公廷において、十二月十三日午前十一時頃当時被告人が勾留されていた久留米警察署を出て警察官篠塚武蔵より連れられ、福岡地方検察庁久留米支部に至り、検察官の取調をうけたが被告人が小郡に来たところまで話したとき検察官にお客さんがあつたので取調を中止された。勿論このとき取調べは本件放火の内容にまでは進んでいなかつた。取調時間は二十分乃至三十分であり、調書は二、三枚作成されただけであつたが、別の紙に署名押印をさせられて帰された。久留米署に帰りついたのは午前十一時三十分頃である。その後検察官の取調は受けていない旨述べている。

そこで十二月十三日附検察官調書をみると、その内容は被告人が小郡に来る迄の事情は勿論のこと、放火をなした動機、放火の手段、方法、放火後の情況に至る迄詳細に記載され、被告人が主張する様に二十分や三十分では、到底作成出来る内容のものではない。

そこでこの調書が被告人主張の様に被告人の述べていないことまで勝手に記載されて作成されたものであるか否かにつき判断する。先ず福岡県久留米警察署長作成の勾留した被疑者の監房出入時間照会の件と題する書面によると、被告人は十二月十三日午後零時四十分に房を出て、午後三時四十分に房に入つている。

出房入房の立会者及び取調者は篠塚と記載されている。そこで証人篠塚武蔵の当公廷における供述によると、右書面に篠塚とあるのは同人のことと認められるが、同人は当日他の被疑者等を同行することなく、被告人一人だけを検察庁に連行し、検察官に本件捜査の経過報告をなし、検察官が被告人を取調べるのに立会つていたものであつて、同日被告人を房から連れ出した際、右検察官の取調の前後に篠塚証人自ら又は他の取調官の取調べのなされたことはないと述べている。

してみると被告人が房にいなかつた三時間というものは被告人は検察庁に居たことになり、検察庁に居た以上、特別の事情の認められない本件においては、その間、検察官から取調をうけていたものと推認されるが、篠塚証人も検察官の取調は大分長く三、四時間ではなかつたかと思うと述べている。

従つてこの点からしても被告人の前記弁解は認められないこととなるので他に特段の事情のない限り検察官作成の調書は真正に作成されたものと認めるより外ないものといわねばならぬ。

(2) 自白の任意性

そこで自白の任意性につき判断することとする。

先ず被告人が自白をなすに至つた動機として当公廷において供述したところによると、被告人は本件放火未遂事件で十二月六日当時被告人とチサ子が居住していた粕屋郡新宮町で逮捕されたが、チサ子も亦同日ではあるが、被告人が逮捕される少し前被告人と共謀による放火未遂の容疑で逮捕された。そして被告人は久留米署に留置され、チサ子は北野署に留置されたものである。被告人は同月七日、八日と警察官から取調べを受け身に覚がないので犯行を否認したが、別に手荒な事もされずに過した。ところが九日に裁判官の勾留尋問が済んでから、山田部長と石井警部から取調をうけた際、同人等は今迄の態度とは手の平をかえす様に変つて、石井警部は二本指で被告人の頭を突いて「お前がせにや誰がするか。」と云われ十月十一日も二人から調べられたが、嘘ばかり云うと云つて被告人の云う事は全然聞いてもらえず、云わんと懲役に何年でも行くぞと云つておどかされたが、殴打されたことはない。ところでチサ子は逮捕される前から風邪をひき頭痛を訴えていたものであるが、被告人は取調中チサ子の事が気にかかり、取調官に聞くと「チサ子は震えているぞ。頭が痛いと云つている。」と云われたので、チサ子が今すぐにでも死ぬような気がして被告人は三百五十円を出してこれで薬を買つて下さいと取調官に頼んだ。すると「お前がしたと云いさえすりやチサ子も帰られるぞ」と云われたので、被告人は死んで身の潔白を示してチサ子を出してもらおうと考え、翌日警察の二階から飛下りて死ぬつもりで遺書を書き、取調に呼出された折その遺書を塵紙の中に挾んで同房者に頼んでおいた。ところがその日留置場の係官がその遺書を持つて来られたので取調官に分つたと思う。そこで被告人は死ぬのを断念し、どうせ法廷では潔白がわかるのであるから、自分が放火をしたと云えばチサ子は帰してもらえると思い、十二月十二日に自白したと述べている。ところで第十一回公判調書中証人石井喜万夫、同山田哲夫の各供述記載によると、同人等は取調の際被告人を誘導したり、強制したりしたことはなく、被告人は涙を流して真剣に自供をしたもので、被告人の任意な供述であると述べ被告人の弁解を否認している。しかし一方被告人がチサ子を庇おうとしたのは事実であると之を認めているばかりでなく、山田哲夫作成の十二月十二日附被告人の供述調書にも、その冒頭に「私は絶対に放火した憶えはない。小山温泉の放火があつた晩は家から絶対外に出ず寝ていたと申し上げて居りましたが、何も知らないチサ子まで共犯者として取調べを受けて居り、私が真実を申上げなければチサ子に対する容疑が晴れないものと考えましたので只今から真実を申述べます。」と記載されているところからみても、取調官である石井、山田両人は被告人のチサ子に対する愛情や、チサ子の身を如何に案じていたかを知つていたものであり、従つて右の如き被告人の心情を同人等が利用して取調をなしたのではないかとの疑もあるので被告人の自白は完全に任意性があるものとはいえない。

(3) 自白の信憑性について

そこで自白の信憑性につき検討することとするが、そのまえに先ず本件捜査の概要をみると、第十一回公判調書中証人石井喜万夫、同山田哲夫、第十六回並びに第十九回公判調書中証人久保田兼儀の各供述記載によると警察では犯人の侵入口、放火の現場、現場における犯罪の手段方法、犯罪後の出口等よりみて現場に行くにはかなり複雑で普通の人は入り難いし、侵入口附近には良く吠えるシエパート二匹がつながれているのに吠えなかつた事実などからして相当内部の事情に明るい者の犯行と考え、被害者山下定の建物につけている保険関係、山下定の本妻と妾との関係、山下定と従業員との怨恨関係等について捜査を進めたが、いずれも容疑は消え、かえつて火災の翌日被告人方から現場の足跡とよく似た草履が出て来たこと、しかもそれが湿つていたこと、被告人は山下方に対し怨をもつていたことなどよりして被告人の容疑は深まり、遂に十二月六日逮捕されたものであるが、警察側は本件火災発生日である十月十九日から被告人逮捕までの一月半余りの間に延五百人の警察官を動員して物証、人証に亘り捜査を尽したあげく確信を以て被告人を逮捕したと述べている。

そこで注意すべきことは以下述べる如く、本件は被告人が十二月十二日にはじめて自白をする前に、本件犯行と関係ある物証人証の殆どがたとい捜査の常道であるにしても警察の手中におさめられていたと認められ、しかも右証拠(多くの疑を容れる余地のあることは既に説明したとおり)と被告人の自白とを対比するとき両者はその内容において殆んど符合することである。即ち具体的に例をあげると

(イ)  被告人は十二月十二日附警察調書で、本件犯行に供用した物件としてボール箱、ぼろ布、鉋屑等をあげ、これら供用物件を男脱衣場の脱衣箱に入れた旨述べているが、これは本件火災発生当日である十月十九日午前二時頃既に山下よし子により脱衣箱から発見せられ供用物件として領置されていたものである。

(ロ)  被告人は前記警察調書で犯行当夜竹皮草履をはいて行つたと述べているがこれも本件火災の翌朝被告人方で発見せられ領置されている。

(ハ)  被告人は十二月十二日附、十四日附各警察調書で十月十四日農協で石油を二合買い、本件放火の際放火材たるぼろ布等に右石油をふりかけたと述べているが、本件火災の直後放火材たるぼろ布等に石油の臭がしていたということは現場目撃証人である小屋松善助、山下よし子の公判廷で述べているところであつて同人等の警察調書は証拠として提出されてはいないが現場目撃者である以上本件捜査開始後間もなく同人等を警察で取調べていることは明白である。

従つて被告人の自白以前に本件放火材に石油のかかつていた事は警察には判明していたものである。そのためにこそ第十一回公判調書中証人石井喜万夫、同山田哲夫の各供述記載によると警察では石油の出所について捜査をなしていたものである。即ち同人等は石油は鑑識の結果三菱石油とわかつたが、現場附近では小郡農協でしか売つていなかつたので農協を調べたところ三合(後で記載する伊藤悦子の供述調書に照し二合の誤りと認める)売つたという事がわかつた。それは被告人を取調べる前であつたと述べている。ところで伊藤悦子の十一月二十四日附警察調書をみると同女は小郡農協の事務員であるが、十月十四日の売上日計表によると、当日石油を二合販売していますと述べている。これによつても被告人の前記石油の出所並びに放火材にふりかけた旨の自白内容に符合する証拠は被告人の自白前既に警察に判明していたものである。

(ニ)  被告人は十二月十四日附警察調書で石油を買うため持つていつた瓶は、ウイスキーかジンか判らぬがチサ子が福岡市春吉に居てホテルに勤めていた時もらつて来ていた洋酒のびんであり、透明な三合五勾位入る角びんで、胴体には亀の甲形の模様があり、何処かの部分に英語が入つて居りましたと述べている。ところが被告人の右供述前である十一月十六日附久米淑子の警察調書によると「ジンの確か角びんと思ひますが白い透明のびんがありましたが、ジンが入つていたと知つていますのは久子(チサ子の誤りと認める)さんが一寸良い臭がするよ、久米さんと云ので、臭をかいで見ますと、ウイスキーで無くジンでありましたので、博多温泉ホテルか以前スワンに働いていたそうですから其処からもらつて来たなあと思いました。」と述べている。

(ホ)  次に被告人は十二月十二日附警察調書で「ズボンのボロは妻のヤスが棄てて居なかつたらまだ二階にあるはずであります。」と述べている。これは証第四号のぼろ布を指しているものと認められるが、第六回公判調書中証人山下ヤスの供述記載並びに山下ヤス作成の任意提出書によると、証第四号のぼろ布は被告人が右自白をする以前である十月二十八日頃に新屋敷の巡査駐在所に同女によつて提出されたことが認められる。しかし証人山田哲夫の当公廷における供述によると、同人は被告人の右自白後である十二月十六日に新屋敷に行つてこの証第四号のぼろ布を受取つたものであり、被告人の自白当時は証第四号のぼろ布の存在について知らなかつた旨供述している。若し同証人の証言が、真実で被告人の自白後に証第四号のボロ布を現実に受取つたものとしても右山田証人の供述によると被告人の自白前である十一月十六日には北野署の光山巡査が山下ヤスの取調のため新屋敷に行つているから右証第四号のぼろ布について何らかの連絡があつたものと思はれるし、又証人坂本立夫の当公廷における供述によれば「その日(十月二十八日)山下ヤスが提出したが、電話できいたところ現物と合わないので預つておき、松元が自白した後こちらのものを持つて行つたところ酷似していたというようなことです。」と述べている。これによると山下ヤスが証第四号のぼろを提出したとき、その駐在所からそのぼろ布につき電話で連絡があつたことが認められる。尤も同人は右電話連絡の点を「私の想像です。」と後で訂正してはいるが、右訂正は同人の供述態度からみて措信できない。やはり山下ヤスよりぼろ布が提出されたとき新屋敷の駐在所から同人に電話連絡があつたか、もしなくとも十一月十六日に光山巡査が新屋敷に行つた際証第四号のぼろ布につき連絡を受けたものと捜査の常識から推認される。

従つて被告人の前記ぼろ布についての自白がある以前に既に証第四号のぼろ布の存在につき警察は知つていたものと認められる。

(ヘ)  最後に第十一回公判調書中証人石井喜万夫、同山田哲夫の各供述記載によると被告人の自白があつてはじめて判明した事でそれ迄はわからなかつたものとしてA証第二号のぼろ布の原形、B本件火災現場えの侵入方法、Cボール箱に紐が結んであつた点をあげている。そこでこれらの点につき果して被告人の自白後はじめて警察に判明したものであるかにつき検討する。

A  被告人は十二月二十日附警察調書で放火材であるぼろ布につき「私が持つて来た時は着物の原形はあり袖は鉄砲袖で衿は着物の様な衿で着物の長さは尻迄位の長さであつた」と述べている。このぼろ布の原形は前記の様に石井、山田両証人の供述記載によると、被告人の自白後篠塚刑事部長や川副刑事にきいてはじめて確かにぼろ布には袖や衿がついていたことを確認したと述べ、証人篠塚武蔵は当公廷において、証第二号のぼろ布の原形は衿や袖と想像がつく程度のものであつたと述べている。同人の供述は曖昧な部分が多く措信できないものと認められるが、仮りに同人の述べる様な原形をしていたとしても、その事を石井、山田両警察官が被告人の自白がある迄知らなかつたという事は疑わしい。同人等の前記供述記載によると同人等は県警察本部の警察官であるが、本件火災発生当時放火事件は県警察本部で捜査することになつていたため、本件火災後一週間位して同本部から本件捜査のため現地(北野署)に派遣されたことが認められる。そこで現地に来てからは現地の捜査員から今までの捜査の経過報告をうけている筈であるから、現地の篠塚、川副両警察官からも放火材たる証第二号のぼろ布の原形につき報告をうけている筈である。従つて被告人の自白後はじめてぼろ布の原形につき知つた旨の供述は疑わしい。かえつて前記の様な理由からぼろ布の原形についても被告人の自白以前から知つていたものと推認される。

B  更に被告人は十二月十二日附警察調書で現場に侵入する方法として「釜場の入口かり入り女湯の裏のくぐり戸を開けて女湯の中に入り湯舟の番台に向つて左側を通り男湯の方へ行くくぐり戸を通つて脱衣箱(男)の前へ来た。」「火をつけてから番台の前を通り元来た道を通つて出た」と述べている。この点についても第十一回公判調書中証人石井喜万夫及び同山田哲夫の供述記載によると、本人の自供後に現場附近で見た人に聞いたら、なるほど女湯の方にも足跡があつたことがわかつたと述べている。しかし現場目撃証人である山下定、山下よし子は女湯にも足跡があつたことは当公廷において、明言しているところであつて、同人等の警察調書は証拠として提出されていないが、現場目撃者である以上同人等を警察で取調べていることは明白である。従つて女湯の足跡についても供述されている筈と推認されるので被告人の自白前に女湯の足跡については警察に判明していたものと思はれる。

C  最後に被告人は十二月十二日附警察調書で「私は箱の中にボロを敷きカンナ屑を入れてつつみ込み、石油を全部ふりかけて仕舞ひ、その前くくるため引さいていたボロでふたをした上から十文字にかけて片一方のひつとき結びにしました。」と述べている。この点についても前記山田哲夫の供述記載によると、被告人の右自白後に最初の発見者に聞けば同人がパット引出した時紐が矢張りついていたという事でありましたと述べている。しかしぼろ布等の最初の発見者である山下よし子は、公判廷でボール箱は長い紐の様なもので十文字にしばつてあつたのだろうと思うと述べている。同女の警察調書は前記の様に証拠として提出されてはいないが、現場目撃者として警察から取調を受けていることは明白である。従つてその点についての供述もなされている筈である。故に被告人の自白前に紐の事は警察に判明していたものと考える。以上の様に被告人が自白をする前にすでに警察においては殆んどの資料が蒐集されていたものであつて、しかもその内容と被告人の自白の内容とが符合することは或は警察官が被告人の自白前集めた資料に基づいて想定した事実を基本として被告人の取調べをなした結果、被告人の自白内容は警察官の想定に副うように誘導乃至強制作為されたものではないかとの疑も生ずる。従つて被告人の警察における自白及びこれと殆んど同一内容の検察官に対する自白はその信憑性において多分に疑を存するものである。

次に被告人の自白調書には次の如き疑問がある。

被告人の警察及び検察庁における自白調書を検討すると、いずれの調書をみても被告人に本件の供用物件であるボール紙(証第一号)ぼろ布(証第二号)鉋屑(証第三号)及び被告人が犯行時履いていたといわれる竹皮草履(証第五号)を示した旨の記載がない。従つて被告人の自白はかかる押収物件を見た上でなされたものとは認められない。この点については被告人は当公廷においても同旨の事を述べている。そこで被告人は自白調書の中で放火材たるボール紙、ぼろ布、鉋屑や竹皮草履について述べているが押収物件をみせて確認したわけではないからこれが果して前記押収してある物件と同一のものであるかどうかは疑わしい。更に被告人は警察及び検察庁において油倉庫から放火の現場に至る迄の道順を詳細に述べている。しかし警察及び検察庁において被告人を現場につれて行き実地に指示させて侵入経路を確認した証拠はない。従つて確かに被告人がその自白にある様な経路で侵入したものか容易に信ずるわけにはいかない。

最後に被告人の自白には左の如き不自然さや矛盾がある。

(イ)  被告人は十二月十四日附警察調書で「私は前に申上げました様に軍属で海南島に居た頃六人で患者を連れに行つた際、匪賊の襲撃を受けましたが、四人は戦死し私と他一人が生き残りました。其の際受けた恐怖のためか非常に其の後は物忘れ致す様になりました。詳かい点を憶えていないのも此の様な事情がありますので何卒寛大にお願い致します。」と述べている。しかしその非常に物忘れをし詳しい点を憶えていないという被告人が十二月十二日附(二通)、十四日附、二十四日附の各警察調書及び十三日附の検察官調書をみると非常に詳細に犯行の動機、手段、方法、供用物件の出所、犯行後の情況に至る迄述べたことになつている。これは明らかに前記供述と矛盾する。

(ロ)  被告人の十二月十二日附警察調書によると被告人は「十月十八日の夜十時頃よりぐつすり寝込んで居りましたが、夢で専務さんと喧嘩してひどく叩かれたのでううんとうなつて目を醒ましました。それから今までの専務の仕打を色々と考えて居りましたが、怒りがむらむらとこみ上げて来ました。其の時酔は未だ完全にさめていなかつたと思います。私は約十分位考えましてよし今からやろうと決心しました。」と述べている。

しかし放火をしてまで怨をはらそうと思い、石油まで買つて用意していた者が夜ぐつすり眠れることもおかしいし、又夢でうなされてから犯行を決意するのも如何にも不自然ではないであろうか。更にこの夢をみた日は第十回公判調書中証人松元チサ子の供述記載によると、本件火災の何日位か前のことであつて本件火災の当夜であると述べていないので同女の供述とも矛盾する。

(ハ)  被告人は前記警察調書に犯行当夜石油を入れて持つて行つた瓶のあと始末につき、犯行後「元来た道を通つてパチンコ屋の本通りの方の出外れまで来て、それからポケットの瓶を前の松林の溝の土手に投げ棄てました。」「翌朝瓶を投げ棄てた溝を見ますと、溝の斜面に瓶が少しめり込んでひつかかつて居りましたので、周囲を見廻わして人の気配が無かつたので、拾つて買物籠の中に入れて家の横の北側の畠の中辺の木のそばに棄てて家に帰り、其のびんは端間へ自転車を取りに行つて帰りに午前十一時頃、ゴルフ場へ注文取りに行く時、自転車で小山温泉の劇場の前を通り、保安隊の横の大保に行く道の西側の池に木のそばから拾つて持つて来てポケットに入れていたびんを自転車の上から池に向つて投げ棄てました。」と述べ、十二月十四日附警察調書では「パチンコ屋の前の溝に投げ入れたと申上げましたが、之も思い違いで、小山温泉と公民館の間位の西側の電柱で割ろうとしましたが、あまり力を入れたら音がしますので割れず家の北側の畠の中の木の根元の処に隠して―(以下前記供述調書記載と同じ)」と一部訂正している。しかし斯様に何度も捨て場所を変えることは如何にも不自然な行為であり、証人山田哲夫の当公廷における供述によると捜査官である同人でさえこの時の被告人の供述には信用性がなかつたと述べている。

又右瓶は捜査したが遂に発見出来なかつたことも認められる。従つてこの点についての被告人の供述は信憑性に乏しいと考える。

(ニ)  既に前に一言ふれたことではあるが被告人は十二月十二日附警察調書で放火材たる証第二号のぼろ布及び山下ヤス提出の証第四号のぼろ布は佩川から貰つて来たものであると述べているが、第六回公判調書中証人山下ヤスの供述記載によると証第四号のぼろ布は「私方の前の日満工業株式会社から被告人が貰つて来た」と述べており被告人の供述と矛盾している。

以上述べた如く被告人の自白はその内容において多くの疑があり又他の証拠との矛盾もあるので信憑性に乏しいものと云わねばならない。

(五)  之を要するに本件記録にあらわれた被告人の自白、物的証拠その他諸般の資料を仔細に検討するときは、前記の如く被告人の自白にはその信憑性なく又自白の裏付けとなる証拠もない。

従つて被告人が本件犯行をなしたものであると認めることが出来ないから結局本件公訴事実は犯罪の証明がないことに帰するので刑事訴訟法第三百三十六条により被告人に対し無罪の云渡をする。

よつて主文のとおり判決する。

(裁判官 大曲壮次郎 長利正己 徳本サダ子)

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